Asma NOTE

Years of rambling from a midlife otaku.

『ブラック・ジャック』の創作現場

数か月前、書店の新刊コーナーで、『ブラック・ジャック』と書かれた一冊を見つけた。マンガの神様・手塚治虫の生涯代表作のひとつが、なぜ「新刊コーナー」に置かれているのか。まさかブラック・ジャックにオマージュを捧げた新作でも出たのだろうか?(かつてドラマ化もされた、台湾では『醫界風雲』と翻訳された医療マンガ、原作書名は『ブラック・ジャックによろしく』である。)

手に取ってよく見ると、本のタイトルは『ブラック・ジャック 創作秘話』。裏表紙を確認すると、秋田書店の「少年チャンピオンコミックスエクストラ」からの単行本であることがわかった。そういえば、『ブラック・ジャック』は当時、秋田書店の『週刊少年チャンピオン』で連載されていたのだ。

「なるほどね……」と心の中で思った。「ふん、多分秋田書店が当時の編集部に残っていた連載資料を焼き直しで儲けようとしてるんだろうな!」

そんな根拠のない先入観に加え、絵柄もあまり好みではなかったので、少し迷ったものの、結局その本を棚に戻した。

しかしその後の数か月、あちこちの書店でこの作品を目にするようになり、しかもかなり目立つ場所に置かれている。「日本の読者は本のタイトルにすぐ引っかかるんだな!」と、そのときの私は自分の視野の狭さを省みることもなく、この作品の売れ行きの良さを、勝手に鼻で笑っていたのだった。

年の暮れになると、宝島社は毎年恒例のマンガ年間ランキングガイド『このマンガがすごい! 2012』を刊行するのだが、この『ブラック・ジャック 創作秘話』が、男性部門でまさかの第 1 位に輝いた!

過去に同ガイドで首位を獲得した作品は、いずれも各大手マンガ誌で人気を博した長期連載作ばかりである。例えば 2006 年の浦沢直樹『PLUTO』、2010 年の大場つぐみ+小畑健『バクマン。』、2011 年の諫山創『進撃の巨人』などだ。

これまで、非長期連載(2009 年から不定期連載)で、かつ単行本 1 冊完結の作品が第 1 位を獲得したことは一度もなかったのである。書店で今年の『このマンガがすごい』を手に取りながら、この時初めて、自分が大きな間違いを犯していたことに気づいたのだった。

この作品は、手塚と共に仕事をした編集者やアシスタント(現在では多くが巨匠と称される作家たち)など業界関係者への取材をもとにまとめられており、内容は「漫画の神様の代表作が生まれた秘話」といったものではなく、『ブラック・ジャック』連載中に起こったさまざまな小話が中心になっている。

新人賞の審査員を務めていた手塚は、アシスタントに、実は応募作など見たくなかったと言い、今でも自分の作品で勝負したいと思っていた、と語っている。
Ⓒ宮崎 克・吉本浩二 / 秋田書店

当時、『ブラック・ジャック』が連載を開始する直前、手塚はまさに事業人生のどん底にあった。新作マンガは新人世代の市場に受け入れられず、アニメ制作会社「虫プロ」もこの時期に倒産し、個人負債 1 億 5,000 万円が彼をほぼ絶望の淵に追い込んでいた。手塚自身も 1968 年から 1973 年の期間を「人生の寒冬」と表現している。そして、医学マンガの先駆けとされるこの名作『ブラック・ジャック』は、実のところ手塚が「引退作」として挑んだ作品で、連載は 4 回で終える予定の短編であった。掲載後、予想以上の好評を博し、編集部はわずか三週目にして連載の延長を決定した。『ブラック・ジャック』によって第二の全盛期を迎えた手塚は、他社の雑誌にも執筆を広げ、1977 年当時、『ブラック・ジャック』、『三つ目がとおる』、『ブッダ』、『火の鳥』、『ユニコ』、そして『MW』の六作品を同時に連載していた。

この『ブラック・ジャック 創作秘話』の舞台となるのも、まさにその時期である。当時、巨匠とともにあの壮絶な修羅場をくぐり抜けた業界関係者たちが、「創作」という道においてマンガの神が残した数々の伝説を証言している。

『ブラック・ジャック 創作秘話』の最大の魅力は、手塚治虫という漫画家の仕事に対する姿勢を、きわめて「忠実」に、そして「客観的」に描いている点にあるだろう。そうした行動の是非はさておき、本作に描かれる手塚のエピソードの数々は、常識をはるかに逸脱しており、「狂人」と呼んでも大げさではないほどだ。印刷所が機械を止め、出稿を待つぎりぎりの状況で、アシスタントのひとりが「今回の話はいまひとつですね」と何気なく口にしたその一言をきっかけに、深夜零時にすべての原稿を回収し、出版社に八時間の猶予を求めて、まったく新しい一話を描き直したというのだ。

どんな仕事も断らない」と豪語していた手塚治虫は、1本でも10本でも同じ!いつでもしめ切りギリギリだ!
Ⓒ宮崎 克・吉本浩二 / 秋田書店

大先生の作品に対する執念は、マンガにとどまらずアニメーションにも表れている。「虫プロダクション」の倒産に際して「もうアニメには関わらない」と宣言した手塚だったが、わずか五年後には再び意欲的に新たなアニメ制作に乗り出していた(しかも複数のマンガ連載と並行して)。制作を率いていたチーフは、あまりに過密なスケジュールに耐えきれず、放送の二か月前に逃げた。放送まで一か月を切っても、まだ多くのカットが白紙のままだったにもかかわらず、手塚は進行中のラッシュフィルムを見ながら、次々と「作り直し」を指示し続けたのだった。

妥協せず、何度でも作り直し、描き直す。自らを限界まで追い込み、それでも休むときは机とコピー機の間に段ボールを敷いて仮眠するだけ…… これこそが「マンガの神」と称される手塚治虫なのである……!
Ⓒ宮崎 克・吉本浩二 / 秋田書店

業界関係者から「デマ虫」「遅筆虫」と呼ばれた手塚先生は、決して口先だけの暴君ではなかった。ほかの雑誌の依頼のために三日徹夜で 100 ページの作品を描き上げた後、瀕死の状態でありながら、『ブラック・ジャック 創作秘話』のために三本のストーリー案を用意し、秋田書店の編集に選ばせたのだ。

本書の中で最も過酷なエピソードは、手塚がアメリカ・サンディエゴで講演を行った際の出来事だ。帰国日と締め切りが重なっていたため、出発前に必ず原稿を提出することを約束していたが、例によって空港へ向かうタクシーの中まで他社の原稿に追われ、『ブラック・ジャック』の原稿はまったくの白紙状態だった。

あのインターネットどころかファクスさえもない時代に、原稿を海外からどうやって日本に送るのか。手塚は国際電話を通じ、頭の中のデータベースだけを頼りに、東京のアシスタントに対して「どの本の何ページ目」「どの作品の何話の何コマ目」といった、すべての場面の作画指示を伝えた。そして大師は、講演当日を除いては部屋に籠もりきりで作業するだけでなく、帰国便の飛行機の中でも原稿作業を手放さなかった。

資料どころか、メモひとつすらない。何も置かれていない机に向かい、手塚はアメリカから電話越しに、日本のアシスタントに信じがたいほど精密で詳細な作画指示を伝えた。
Ⓒ宮崎 克・吉本浩二 / 秋田書店

手塚先生は 1989 年に胃がんで亡くなり、享年 60 歳。長寿で知られる日本人としては、決して高齢とは言えない。これまで、多くの手塚先生自身や手塚先生の家族の作品を通じて、先生の「仕事狂」ぶりの一端は理解できていた。しかし、『ブラック・ジャック 創作秘話』は、先生が自らの創作への熱情に「蝕まれていく」姿を、ほとんど容赦なく、生々しく読者の前に晒している。

被取材者の体験談が圧倒的な説得力を持つことに加え、作者・宮本浩二の劇画的な筆致も大きく貢献している。夏の夜、冷房のない作業室で汗を流しながら、「まるで原稿をかじり取ろうとするかのような眼差しで、必死に原稿を刻む手塚先生」や、極度の疲労で「作業室の机とコピー機の間の段ボールの上でうたた寝するマンガの神」といった、汗と圧迫感にまみれた場面の数々は、読者に衝撃を与えるというより、むしろひとつの壮絶な光景として胸に迫る。

サンディエゴから東京へ向かう飛行機の中、手塚先生は狭い座席のテーブルに身を伏せ、読書用のかすかな明かりを頼りに、『ブラックジャック』の原稿を刻んでいた。
Ⓒ宮崎 克・吉本浩二 / 秋田書店

どれだけ写実的に描かれていても、『ブラック・ジャック 創作秘話』はあくまで手塚先生へのオマージュ作品であり、日本社会の価値観は本質的に「職人魂」を尊ぶ文化であることに変わりはない。

もちろん、手塚先生は私が最も尊敬するマンガ創作者であり、その筆致によって生み出された数えきれないほどの感動作の数々はさておき、手塚先生が日本近代マンガの基盤を築き、与えた影響は計り知れない。しかし、「マンガの神」という称号はあくまで称号に過ぎず、ひとりの「人間」として考えたとき、このような生き方が本当に世に称賛されるべきものなのだろうか。

疑いなく本作は非常に優れた作品であり、いくつもの場面で私の心を打った。宝島社が選んだ年間最強作にふさわしいことは間違いない。しかし、外国人として読む私には、「仕事に燃え尽きる美学」に対する、心の奥底から湧き上がる小さな悲哀を抑えることがなかなか難しいのも事実だった。

『小日子』(創刊号)(2012 年 2 月)に掲載

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