2011 年 8 月 23 日――日本のテレビ史に刻まれる大きな一日である。当時絶大な人気を誇っていた番組司会者・島田紳助は、所属事務所「吉本興業」を通じ、夜 7 時に緊急記者会見を開き、即日「芸能界を引退する」と発表した。
台湾の読者の多くにとっては、この事件の重大さはなかなか実感しにくいかもしれない。「たかが一人の芸能人の引退ニュースが、同時期に起きたスティーブ・ジョブズのアップルCEO退任や野田佳彦の日本総理選出宣言といった大ニュースを押しのけてトップ記事になるのか?日本人の頭はどうかしているのか?」
これも無理はない。台湾のメディアにとって、島田紳助は長寿バラエティ番組『開運!なんでも鑑定団』の司会の一人に過ぎず、真面目な台湾の記者であれば、記事中に「ほかにも多数の人気番組の司会者を務めている」といった注釈を加える程度だろう。もちろん事実ではあるが、それだけでは、彼が日本のテレビ業界やお笑い文化圏で占める地位のごく一端さえも表現できない。
2012 年 8 月時点で、紳助手には全国放送の番組が週 5 本あり、それぞれが夜 7 時から 9 時のゴールデンタイムに放送されていた。当時、日本のメディアが試算したところ、彼の引退によって各テレビ局が被る損失は、わずか二週間分の制作費だけでも合計 2 億 3,000 万円を超え、その数字に、スポンサー企業の出資や番組に関連する周辺経済効果は含まれていなかった。
1974 年、本名・長谷川公彥の 18 歳の少年は、テレビで「B & B」(島田洋七・島田洋八)の漫才を目にし、その場で「青春を賭けて、洋七を倒す」と決意する。こうして、師匠である島田洋之介に弟子入りし、芸名を「島田紳助」とした。21 歳の時、松本龍介とコンビ「紳助・竜介」を結成。この二人組は、つなぎ姿にリーゼントという風貌で、機関銃のように早口で飛ばす型破りな漫才を披露し、当時の舞台に立つときはスーツにネクタイで、正統的な調子で話す伝統的な漫才スタイルに強烈な衝撃を与え、たちまちメディアの寵児となった。
同じくお笑い出身の名司会者・上岡龍太郎は、「紳竜」の演技を見て、島田に自らの漫才の血統を継がせたいと考えた。そのため、上岡は島田を食事に誘い、席上でこう問いかけた。「君はどんな漫才をやりたいんだ?」
紳助は「前代未聞の漫才です」と答えた。
上岡は一瞬固まった。なぜなら「自分の漫才=既存の漫才」だったからだ…… しばらく沈黙した後、上岡は紳助にこう言った。「よし、俺が知っているすべての漫才の型を教えてやる。前代未聞の漫才をやりたいなら、これらを避ければいいだけだ!」
こうして二人の師弟関係は始まり、「紳竜」は漫才界で長年独自の存在感を示し続けた。紳助が漫才から離れたのは、ほぼ 1980 年代中期の「第一期漫才ブーム」の終盤にあたる。「ダウンタウン(松本人志・浜田雅功)の漫才を見たとき、『紳竜』はここで終わるべきだと悟った」と、紳助は後に語っている。
「紳竜」が解散したあと、島田は事業の重心をテレビ業界へ移し、師匠である上岡龍太郎と共に多数の番組を担当した。その中でも 1990 年代初頭の『EX テレビ』(日本テレビ系列局)は、数々の前例を打ち破る革新的な試みを次々と生み出した。たとえば、20 年以上前の当時、視聴率というテレビ番組の生死を左右する神秘的な指標の全貌を徹底的に明らかにし、視聴者の動向を巧みに操作。深夜で放送終了となっていた NHK 教育テレビを、同時間帯の全国視聴率トップに押し上げることに成功した。
また、『開運!なんでも鑑定団』の起源は実は『EX テレビ』の独立企画にあり、当初は「知識のない成金が、あたかも通ぶって恥をかかせられる」ための企画だった。その後、この企画は『EX テレビ Osaka』最終回の企画オークションで東京テレビに買い取られ、こうして『開運!なんでも鑑定団』が誕生したのである。
島田が「名司会者」としての地位を確立したのは、TBS が 1991 年から毎年 2 回放送していた大型バラエティ番組『オールスター感謝祭』である。まだ 35 歳の紳助は、卓越した話術と瞬発力で、相方の島崎和歌子とともに、200 名の芸能人が参加し、3 時間にわたる生放送番組を見事に仕切った。そして、上岡は毎回の「感謝祭」で、必ずスタジオ最前列に座り、弟子の圧巻のパフォーマンスを見守っていた。
1996 年、上岡龍太郎が芸能界引退を発表した際、紳助は師匠に宛てて手紙を書き、「演芸界での目標を失ってしまいます。どうか引退の決定を再考してください」と訴えた。それに対し、上岡はこう返した。「気づかなかったのか?お前はとっくに俺の前を行っていたんだぞ」。
『オールスター感謝祭』は 1991 年 10 月からこの 20 年間で、島田紳助が合計 40 回司会を務めた(2012 年 8 月に引退を発表するまで)。
紳助の司会スタイルは、率直で辛辣なことで知られているが、これまで彼の毒舌のせいでタレントにネガティブな評価がついたことは一度もない。紳助はまた、極めて優れた芸能界の目利きでもある。円広志(歌手)、高木美保(女優)、misono(歌手)など、事業の危機に直面していた多くの芸能人が、紳助の慧眼によってバラエティ界での転身に成功している。
テレビ業界の頂点へ着実に歩みを進める一方で、紳助は自らの原点――「漫才」を決して忘れなかった。2000 年、紳助は「M-1 グランプリ」を立ち上げ、以降 10 年間、年末に開催されるこの漫才大会は、全国の漫才新人にとって最高の目標とされている。予選で 4,000 組以上が戦い、最終的に残った 8 組が決勝で競い合い、優勝したコンビには 1,000 万円の賞金が贈られる。これは、95%以上がアルバイトで生計を立てるお笑い芸人にとって、実力で夢をつかむ、まさに直接的なチャンスに他ならない。
2010 年の第 10 回大会までに優勝したコンビは、フットボールアワー(岩尾望・後藤輝基)、チュートリアル(徳井義実・福田充徳)、サンドイッチマン(伊達みきお・富澤たけし)など、それぞれが現在の日本のバラエティ界を牽引する精鋭である。紳助が「M-1」の唯一の制限である「デビュー 10 年以内」について語る際には、こう説明している。「漫才の道には夢があるが、同時に才能が求められる世界でもある。デビューから 10 年以上経っても結果が出ない場合は、次の夢を追いかけるべきだ。青春を間違った道に浪費してはいけない」。
2002 年に来日して以来、この 10 年間、紳助の番組は筆者のテレビ生活の大半を占めてきた。特に感銘を受けるのは、彼の「無数の善意や創意をエンターテインメント資源へと変える」企画力である。
『行列のできる法律相談所』(日本テレビ)を通じて、カンボジアの子どもたちのために学校を設立したり(これに対しては偽善的だと評する声もある)、外務省を辞め、自らの意思で生涯スーダン医療事業に従事する医師・川原尚行と出会わせたりした。
また、『紳助社長のプロデュース大作』(TBS)では、沖縄・宮古島の年間観光客数を 40 万人以上に押し上げた。沖縄で絶滅の危機に瀕するサンゴを救うため、すべてを投げ打ってサンゴ養殖技術に取り組む金城浩二も、この番組によって収益モデルを構築する機会を得た。
さらに、クイズ番組『クイズ! ヘキサゴン』(フジテレビ)を通じて、「羞恥心」(つるの剛士・野久保直樹・上地雄輔)や「Pabo」(里田まい・スザンヌ・木下優樹菜)など、型破りなアイドルグループを生み出し、彼らの芸能活動を新たな高みへと押し上げたのである。
紳助の引退理由について、筆者はこれ以上あれこれ語るつもりはない。芸能界とは、平凡な観客である私には全貌を窺い知ることのできない世界だからだ。唯一はっきりしているのは、紳助の引退とともに、日本のテレビ界が新たな時代へと突入せざるを得なくなったということである。
紳助は若いころから小癟三(チンピラ)であり、年を取ってもやはり老癟三(不良中年)である。しかし、私の目には、彼はいつも真っ直ぐに仕事に向き合う人であり、誰かを裏切ったり傷つけたりするようなことをしたわけではない。昨年、彼が「芸能界引退」を決断したとき、ちょうど 55 歳であり、これは上岡龍太郎が 1997 年に引退した年齢と同じである。「もううんざりだ、全部やめてしまおう!」というわがままさもあったのだろうが、そこには自らの宿命として受け止めた仕事への覚悟と美学がしっかりと刻まれていた。
観客として、私は彼の幕引きの方法を尊重する。しかし同時に、近い将来、再び舞台に立つ姿を心の中でひそかに期待し続けたいと思う。
『小日子』(No.002)(2012 年 5 月)に掲載

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