Asma NOTE

Years of rambling from a midlife otaku.

訳者の目に映る『東京ヒゴロ』

2026年10月上旬、隔週刊『500輯』にお声がけいただき、『東京ヒゴロ』の翻訳についてのインタビューを受けることになり、お声がけいただけたのは光栄だ。この作品のおかげで、訳者としてこれまで考えてもみなかった「年間ベストブック」のノミネートまで経験できたことももちろんうれしい。それ以上に、この作品は(作品そのものも、翻訳という体験も含めて)私にとって、とても特別な意味を持っている。

編集者以外の人とは普段なかなか話せない話題を、こうして語る機会をいただけたのもうれしい。台湾版の第1巻が出たときには、それに合わせて「30年の風格と気骨──松本大洋の『東京ヒゴロ』」という記事を書いた。このインタビューを読んで、ほんの少しでも興味や好奇心が湧いたら、ぜひそちらにも寄り道してみてほしい。


1.「読者」として『東京ヒゴロ』を初めて読んだとき、まず何に惹かれましたか?

「初めて読んだとき」に何に惹かれたか、というご質問ですが、まず強調しておきたいのは、この作品は読む前からすでに私を惹きつけていた、ということです。作者の松本大洋は、私の中の「財布を脅かすバケモノ」の基準を完璧に満たしているマンガ家です(もちろんほめ言葉です)。題材が何であれ、大洋先生の作品なら、1冊出れば1冊買い、1シリーズ出れば1シリーズ揃えるしかありません。「先生が筆を置かない限り、財布に安らぎの日は訪れない」というわけです。ですから厳密に言えば、最初に私を惹きつけたのは「作者」でした。

この本を初めて開いたとき、実はどんな物語なのかさえ知りませんでした。ところが、マンガ編集者とマンガづくりを描いた作品だとわかった途端、胸の中の火が消えなくなってしまったのです。何十年もオタクとして生きてきたからというだけではありません。私自身がかつてこの業界に身を置き、その世界の文化にも馴染みがあり、何より「マンガ」というメディアに深い思い入れがあるからです。しかも、この作品が描く舞台裏は、これまで私が触れてきたマンガ創作を扱ったどの作品よりも、誠実で、深く、心を打ち、説得力がありました。

《東京日日》大塊文化 © 松本大洋 / 小学館

主人公の塩澤は、第1巻で家にあるマンガをすべて売ろうとしますが、うっかり散らばってしまったマンガを目にして、思い直します。床いっぱいに散らばった本の七、八割は、私も読んだことがあり、同じように名作だと思っている作品でした。残りの二、三割は読んだことがないものの、いずれも名の知れた巨匠の代表作です。(台湾版の巻末には、第4章に登場する、判別できるすべてのマンガ作品の一覧を付けています。)その瞬間、「塩澤」というキャラクターのマンガを見る目(あるいは波長)に、すっかり説得されてしまいました。そして、売り主の家に呼ばれ、丸一日近くかけてトン単位の古本を査定し終えたところで「やっぱり売らない」と告げられた古書店の店主も、汗を流しながら淡々と「わかるんだ、アンタの気持ち。オレも好きだから……マンガ。」と返すだけでした。読者である私の気持ちを、ほとんど継ぎ目なく、このキャラクターの口を借りて代弁してくれたのです。

『東京ヒゴロ』には、こんなふうに読者の心に触れる場面が本当にたくさんあります。きっと、そういうものに惹かれた(感動した)のでしょう。第1巻を読み終えて、涙もまだ乾かないうちに、私は編集者に「頼むから、この作品は絶対に私にやらせてくれ」とメッセージを送っていました。

2.(前の質問に続いて)その後、「訳者」として翻訳の過程でこの本を読み返したとき、初読では気づかなかった細部はありましたか? それは何でしたか?

実のところ、翻訳を担当していなくても、どんな作品でも初めて読んだときにすべての細部に気づくというのは、なかなか難しいと思います。たとえば、フキダシの中に書かれていない、セリフにもナレーションにも当たらないつぶやきや、あまり目立たない擬音などです。そういうものの中には、2回目、3回目に読んだときに初めて気づく、小さなサプライズがあったりします。

一方で、翻訳という作業を通すと、一読者として読んでいたときには読書のリズムを乱したくないために読み飛ばしていた(あるいは細かく読む必要のなかった)部分についても、否応なく調べることになります。その代表的なものが歌詞です。登場人物が口ずさむ歌は、実はそのキャラクターの個性(どんな歌が好きか)、育った背景(どの世代の歌か)、生活環境(どんな場所や場面でよく耳にする歌なのか)をそれぞれ映し出しています。これらの要素は、作者がこうしたキャラクターを「紹介」し、人物像を描き出すときに差し出している、重要な情報でもあります。長作が普段どんなテレビ番組を見ているか、娘の瑠奈がどんな芸人を好きか、青木の姉がどの世代なのか……。こうした細部はどれも、読者がキャラクターの世界にしっかり入り込むのを助けてくれます。

《東京日日》大塊文化 © 松本大洋 / 小学館

3.『東京ヒゴロ』という「原作」と『東京日日』という「訳書」とで、読書体験における最大の違いは何だと思いますか?

『東京ヒゴロ』に限らず、どんな作品を翻訳するときも、原作と訳書のあいだに生じる読書体験の差を、私はできる限り取り除こうと強く意識し、努力しています。でも、やはり異なる文化的背景のもとで、異なる言語によって生み出された作品ですから、そうした違いをゼロにすることはどうしてもできません。いちばん分かりやすいのは、やはり本作で使われている方言だと思います。

《東京日日》大塊文化 © 松本大洋 / 小学館

大洋先生が描く人物たちは、ほとんどが唯一無二の「口調」を持っています。キャラクターの性格の違い、あるいは話す場面や相手の違いによるものであれば、話し方や言葉選びのくせは、語感と語彙を工夫して、原作の味わいに近い中国語に訳すことができます。ところが、日本の方言文化は台湾よりはるかに複雑で、しかも方言ごとの地域文化のイメージが、そのままキャラクターの特質にも反映されています。台湾版の訳文でこの部分の要素を簡略化したのは、本当にやむを得ない選択でした。これらの異なる方言を無理に台湾の地方方言などに当てはめてしまったら、台湾の読者の読書体験とリズムを壊してしまうだけだからです。

4.(前の質問に続いて)翻訳することによって、この作品に近づいたと感じましたか、それとも遠ざかったと感じましたか? その理由も教えてください。

まずは単純なほう、「遠ざかる」ほうから話しましょう。私は、作品にいちばん近い状態とは、読者として純粋にその作品を楽しんでいるときだと思っています。原文で直接この作品の世界に入り込めるとき、受ける刺激も感動も、すべてがとてもダイレクトです。ところが、翻訳が絡んだ途端、その純粋なものを、頭の中の言語変換メカニズムに通さなければならなくなります。「もう読者として純粋に作品を味わい尽くすことはできない」というこの距離感こそが、「遠ざかった」と言えるのかもしれません。

《東京日日》大塊文化 © 松本大洋 / 小学館

一方で、だんだんと「近づいていく」感覚が強まるのは、すべてのキャラクターの一言一言を、自分の母語でもう一度アウトプットしなければならないからでもあります。ひと言の意味を中国語で把握すること自体は難しくありません。けれども、うまく訳そうと思えば、まずそのキャラクターを演じ、自分がその出来事に遭ったつもりになって、その場の状況に身を置き、「話している相手」と自分がどういう関係なのかを考えたうえで、はじめてそのひと言を、的確な訳文へと落とし込むことができるのです。つまり、一つの作品を訳し終えるまでには、ほとんど否応なく自分を作中のあらゆる場面に放り込み、登場人物それぞれの喜怒哀楽に寄り添いながら、その人物たちを何度も生身で演じるようなものなんです。これは、訳者にしか味わえない「近づく」という体験だと思います。

5.作品が世に出た今、あらためて自分の訳書を読み返して、直したいと思うところはありますか? それはなぜですか?

うわ〜〜〜、本当に山ほどあります! 作家が原稿を納めたあとの心境と、よく似ているのかもしれません。もう完成していて、何度も推敲を重ねたはずなのに、読み返すたびに「ここはこう直したほうがいい」「あそこは別の言い方のほうが合っている」と思うところが、いくらでも出てきます。

どんなに小さな箇所でも、直したいと思う動機はほとんど同じで、「その場面の状況を考えれば、こう直したほうが、ストーリーが本来表現したいものに近づく」ということです。マンガ翻訳の仕事は、日本語の情報を正確に中国語にすることよりも、「物語を中国語で読者に正しく語って聞かせること」のほうが大切だと、私は思っています。ときには「文字情報が100%正確」という条件を、適度に妥協してよい場合もあります。読み返して直したくなるのは、うっかり「文字情報」の正確さにこだわりすぎてしまった箇所であることが、けっこう多いです。前後の文脈の流れに沿えば、原文の字面どおりの正確さにこだわりすぎないほうが、状況に合っている箇所もあるのです。

とはいえ、そのほとんどは、私のような面倒くさい細かい人間が、しかも原文と訳文を並べて照らし合わせて、ようやく気になるような小さなところです。それに、読み返すたびに直したい箇所が次々と見つかります。ただ、読書体験全体で見れば、厚かましいのを承知で言わせてください。台湾版『東京日日』は本当によく訳せていると思います。読み返すたびに、細かいところで自分にツッコミを入れながらも、毎回ちゃんと目をうるませて読んでしまうのです。

6.『東京ヒゴロ』は、これまで手がけてこられた松本大洋作品の翻訳と比べて、どのような作品ですか? いちばん大きな収穫は何ですか?

以前、大洋先生の『竹光侍』について、「天才の進化に限界はない」というタイトルの記事を書いたことがあります。このタイトルは、本当に先生のその後の作品すべてに当てはめてもいいと思っています。ただ、『東京ヒゴロ』は、私の目には、先生が「創作」という核心的なテーマに対して最も真摯に、最も忠実に、そして最も生々しく、身を切るようなかたちで向き合った作品です。同時に、そこには最も深い愛と希望も込められていると思います。主人公の塩澤をはじめ、登場人物一人ひとりがマンガへの愛と向き合う中で抱えるプレッシャーや矛盾、心の葛藤は、どれも深く共感させられると同時に、胸を打ちます。どんな作品かと一言で表すなら、「誠意のある創作」への敬意を抱かせてくれる作品、と言えるのではないでしょうか。

そして私にとって、この作品の翻訳でいちばん大きな収穫は、先ほどお話しした、「登場人物それぞれの喜怒哀楽に寄り添いながら、その人物たちを何度も生身で演じる」という経験を通じて、創作の過程にある痛みと美しさを、身をもって味わえたことです。

隔週刊『500輯』の企画「訳者の登場」インタビュー(2026/10/9)

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