約二十年ほど前のこと。当時の彼女はある出版社で外部原稿の編集を担当していて、その頃は立て込んで手が回らなかったようで、私に一、二冊手伝ってほしいと頼まれた。後日、原稿を受け取ってみると、この作品はそれまで自分が慣れ親しんだマンガの言語とはまったく異なるものだった。登場人物に美男美女は一人もおらず、粗いタッチで描かれたのは透視の歪んだ、変形した人体の造形ばかり。コマ割りや画面構成は無秩序に見えるが、決して雑ではなく、静止・動作問わず、放縦にして狂気すら感じさせるリズムで、私の眼窩に一刀一刀、容赦なく突き刺さってきた。
1980 年代初頭、大友克洋の『童夢』は当時のマンガ界にとって、広島型原爆のような衝撃だった。「マンガってこう描けるんだ」「マンガってこう演出できるんだ」「マンガってこんな風に物語を語れるんだ」…… 今振り返ってみると、自分が受けたのもまさにこんな衝撃だったのだろう。当時振られた作品の名前は『ZERO』で、作者は松本大洋だった。



二十年以上前に眼窩を突き刺したあの画面は、まるで安全ベルトのないジェットコースターに乗せられたかのようだった。最後のページを閉じたとき、まさに驚魂未定と言うしかなかった。しかし、その瞬間、腰が抜けて背筋も伸ばせないほどだったにもかかわらず、心の中は狂喜に満ちていた。コマとコマの間に、自由に躍動する光と美を見たような気がした。それは計算では表現できない「自由」であり、「マンガ表現の理想形」を目の当たりにした瞬間だった。
『ZERO』で松本先生の大ファンになった私は、その後の『鉄コン筋クリート』や『花男』、『ピンポン』…… もちろん、迷うことなく出るたびに買い揃えた。二十年が過ぎ、松本先生の筆致はますます円熟の境地に達している。『Sunny』や『ルーヴルの猫』といった近年の作品では、その内に秘めた繊細さは、かつての大洋からは感じ取れなかった成熟ぶりだ。しかし、私の心の中では、これはずっと当時感じた「マンガ表現の理想形」の延長線上にある。松本大洋の進化は、読者の目にも明らかだ。しかし私にとっては、それがだんだんと、当然のことのように感じられるようになり…… 極めて贅沢な “当然” になっていった。
本作の翻訳監修を終えた後、編集長から『竹光侍』の推薦文を千字程度で書いてほしいと依頼された。気づけば文章はすでに七百字余りに達していた。これほど長々と昔のことを振り返って書いているのは、『竹光侍』という作品が、二十年を経た今、私に当時と同等、いや明らかにそれ以上の内面的衝撃を与えたからにほかならない。
『竹光侍』の舞台は、今から三、四百年前の江戸時代。主人公の瀬能宗一郎は、身の上も来歴も一切謎に包まれた剣客である。絶世の武芸を持ちながら、腰に帯びるのは竹光のみ。物語はしばしば、同じ長屋に住む小男の勘吉の視点から描かれる。第三回では、瀬能が勘吉に向かって言う。「風をつかまえて、蝶を模す。風が来たところへ羽を当てる、逆らわらず、流される流される……」と言いながら、袖口を掴んでひらりと振る。勘吉の目に映った巨大な蝶――おそらくこの作品で最初に私を圧倒した場面である。松本大洋は、私に漫画の中で初めて「山を見ても山にあらず」という境地を体験させ、その後「再び山を見れば今や山である」となる境地を示してくれた作家である。


中条省平教授は「松本大洋論――天才の軌跡」の中で、『竹光侍』についてこう述べている。「葛飾北斎や曾我蕭白といった日本美術の“魂”が、まるで松本大洋の身体に乗り移ったかのようだ」と。これはまさに、これ以上ない的確な賛辞である。
絵画やイラストと異なり、マンガは時間軸を伴う視覚メディアである。一方で日本美術、とりわけ浮世絵は「意識された瞬間」を強く重視する美学である。必ずしも相反するわけではないが、本質的にはまったく異なる美学の体系と言える。


徹底した時代考証を経たうえで、松本先生は『竹光侍』に、この作品だけの、潑墨(はつぼく)のように自由に広がる視覚空間を構築した。その世界を通して、「動」と「静」の魅力を彼の筆先に完璧に融合させている。全八巻で1,600 ページを超える長編で、どの巻も画集として保存したくなるほどの芸術的価値を持つ。しかし、無数の断片的な瞬間がこれほどまでに心を揺さぶる美しさを持ちながらも、読むリズムは一切乱れず、全体のテンポは「行雲流水」と表現しても過言ではない。

松本先生はもともと人物描写に長けており、物語の主軸に挿入されるエピソードは常に心を揺さぶり、涙を誘う。そして、彼は「強者」の脆さや葛藤、内面の矛盾を描くのも得意だ。『ZERO』の五島とトラビスのリング上での闘いから、『鉄コン筋クリート』のクロとイタチのもつれ……さらには『ピンポン』でのペコとドラゴンの天地を揺るがす卓球試合に至るまで、私は、作者が「対決」というテーマを新たな高みにまで押し上げたと感じている。そして『竹光侍』の登場は、進化に限界などないことを証明した。主人公・瀬能の心に棲む鬼、そして木久地(第2巻登場)から骨の髄まで染み出る悪と狂……松本は、この唯一の時代劇作品において、「真剣」を通して、これら二つの魂が衝突して生まれる火花を、ためらいなく別次元へと昇華させている。

『竹光侍』は、既存のあらゆる視覚表現に挑戦することに成功した作品だ。日本のマンガ史に名を残すにふさわしい一作である。二十年の時を経て、私に再び「革命」という言葉の重みと可能性を目の当たりにさせてくれた。かつて自分が思い描いた「マンガ表現の理想形」が本当に超えられたかどうかは、正直なところまだ確信が持てない。しかし間違いなく、この作品は私たちにこれまでになかったマンガの言語、そして新たな視覚体験と文学体験をもたらしてくれたのだ。
博客來OKAPI(2018/08/15)に掲載

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