Asma NOTE

Years of rambling from a midlife otaku.

無邪気は最強! 永遠のペンギン村、永遠のアラレちゃん!

「Tears of Time」シリーズは、20 世紀末から 21 世紀初頭にかけて、数多の歴史文献から掘り起こされた化石 のような作品たちだ。恥力の限界を突破したのち、「若さ故の過ち」との反省を込めつつ、自分で記録して世に出したものでもある。


『Dr.スランプ』……なんと遠い作品なのだろう、しかし同時にこれほど親しみを感じさせる作品もない。この作品がもたらしたものは、決して鳥山明の神話を創造したことだけではない。何千万部もの売上や天文学的な収益を脇に置いても、それ以上に重要なのは、コメディ漫画に無限の奇想天外な可能性を切り開いたことだ。

唯一無二の舞台

物語の舞台はペンギン村という小さな村。天才科学者・千兵衛が作り出した宇宙最強ともいえるロボット──アラレちゃんは、一撃で地球を真っ二つにできるほどの力を持ちながら、木の棒にうんちを刺して村中を駆け回ったり、何でも食べてしまう羽つき赤ちゃん・ガッちゃんと共にペンギン村を大騒ぎにしている。

千兵衛一家以外の村人たちも、それぞれ鮮明な個性を持ち、この作品の中で唯一無二の存在感を放つ。学校の先生や同級生、警察署の警官、牛乳を売る暴走族、地球征服を目論むも地球に不時着して帰れなくなった宇宙人、口では正義を語るがろくでもないことばかりする正義使者……。善良とは限らないが、個性は純粋そのもののキャラクターたちが、無茶苦茶ながらも独立した空間としての「ペンギン村」を見事に築き上げている。

彼女をロボットだと思っている人なんて本当にいるのだろうか?

アラレちゃんはロボットだ。人工の皮膚の下には硬い金属と機械が詰まっている。当然、これを知っているのは読者と千兵衛、(ああ、あとガッちゃん)くらいのものだ。しかし心拍はなく、並外れた怪力を持ち、頭と体をいつでも分離できる。人間が食べるものは一切口にせず、燃料用のロボビタン A だけを摂取する……。

これらの事実はペンギン村の住民たちにとっても争いようのない常識だ。私たちはむやみにアラレちゃんを「人間らしい」と褒めることさえ躊躇してしまう。しかしペンギン村の住人たちは、こんな特別な女の子を自然に一人の「人」として扱う。博士の千兵衛でさえ、時にはアラレちゃんがロボットであることを忘れてしまうほどだ。

アラレちゃんはロボットだ。しかしいつの間にか、彼女が周囲のすべての人(私たちも含めて)の前で演じる姿は、「作られた存在で、修理が必要で、怪力を持つ女の子」として定着してしまった。読者も、その違いをある程度は理解できるだろう。

絶対的な無邪気さは無数の読者の共感を呼び、彼女の目に映るすべてのものが遊びとなる。いつも元気いっぱいのアラレちゃんは、ペンギン村の日常に入り込み、そしてそのまま読者一人ひとりの心にも受け入れられていくのだった。

自由自在、しかし決していい加減ではない

『Dr. スランプ』最大の魅力は、作者が作品に対して与えた自由さにある。ペンギン村の世界では、不可能なことなど存在せず、現実世界の論理やルールは一切通用しない。千兵衛が大斧で頭を割られようが、ウージー機関銃で全身に穴を開けられようが、次のコマや次のページでは絆創膏一枚で何事もなかったかのように…。このような空間設定に加え、千兵衛自身が無敵の発明家であることから、作者が発揮できる自由度はまさに無限大だった。

鳥山明は、天馬行空の漫画表現を駆使してコメディ効果を高めるのが非常に巧みだ。自身の著作『ヘタッピマンガ研究所』の中でも強調していたのは、「漫画とは『何でもあり』である」という一点である。言い換えれば、「何でもあり」だからこそ、それが「漫画」なのだ。しかし、この自由さや制約のなさは、あくまで題材や表現手法の範囲に限られたものであり、実際に各エピソード(長編・短編を問わず)の物語展開を分析してみると、鳥山明の脚本の緻密さは想像を超えるほどであることに気づかされる。

世界征服を野望とするマシリト博士を例に取ると、彼が次々と送り出す邪悪ロボットのシリーズ、「キャラメル」1 号~9 号は、いずれも「世界征服の最大の障壁」である千兵衛(アラレちゃん)の前に立ちはだかり、決してその壁を越えることはできない。それでも、幾度となく失敗しつつも千兵衛の弱点を的確に改良して挑む姿には、読者も千兵衛やガッちゃんと一緒に思わず冷や汗をかかされることがある。

マシリトの野望は最終的にいつも予期せぬ形で頓挫するのだが、多彩で、陳腐に陥らず、創意に満ち、かつ説得力のある展開からは、鳥山明という創作者が、この作品に最も自由な空間を与えながらも、決してその自由を放縦に任せてはいないことが強く伝わってくる。

文字通りの「自作自演」…?

鳥山明は『Dr. スランプ』の作者であるだけでなく、ペンギン村の住人の目の前にいつでも現れる「キャラクター」でもある。

どういうことかというと、自分の作品にちょいちょい登場する漫画家は少なくない。しかし大多数は単に「傍観者」として端役を演じるだけであり、鳥山明のように堂々と「創作者」として作品内に登場し、物語をかき回す例はほとんどない…。例えば、村全体を巻き込んだかくれんぼ大会。主催者であり作者でもある鳥山明が用意した賞品は、作者だからこそ用意できる――「あなたの願いを叶える」! しかし、優勝した千兵衛(丁小雨)の願いは「大きくなること」だった……。

マジか!成年のアラレちゃんとガッちゃんを描いちゃったら、誰がこんな作品を見てくれるっていうんだ?

でも、なんでもありの大作家・鳥山明は、消しゴムでちょいちょい消し、セリフをちょいちょい直して、あっさりこのデリケートな問題を片付けてしまった。

原稿をいくら急いでも、最後はやっぱり締め切りに間に合わない…。時間が全然足りないとき、いっそ自分が生み出した天才科学者・千兵衛にお願いして、時間を止められる機械を作ってもらえばいいじゃないか?そのとき、ついでに彼の脚をちょっと長めに描いてあげれば、人情を売ることにもなるし…。

こうして「作者」という存在を、自ら創り出した世界に徹底的に溶け込ませることで、同時に作品全体にさらに荒唐無稽な展開の余地をもたらすことにもなる。

鳥山明の子どもたち

鳥山明のキャラクターたちの、最も人々を惹きつける部分は、やはりその純粋さと天真さだろう。デビュー作『ワンダー・アイランド』から現在に至るまで、短編連載の一作一作において、彼の描くキャラクターたちはこの特性を備えている。そして『Dr. スランプ』は、この特性を最も存分に発揮した作品と言える。

ペンギン村は、そもそも見ているだけで思わずほのぼのと笑ってしまう、のんびりぼけーっとした場所だ。入学試験のない高校の教室で、「愛の教育」を生涯の理念とする栗頭大五郎先生が黒板に書く課題は「4+3」「7-2」といった算数の計算問題。アラレの学長、空豆タロウは「気づけば」高校を卒業し、警察界に進むことを決意するが、父親は息子の志を聞いて言うのだ…

「ふむ、違反者を取り締まれば大金が稼げるな…」

一般の善良な村人たちも皆天真爛漫で、ほとんどの登場人物は悪事を働かないキャラクターだ。唯一の「純」悪役、マシリト博士でさえ、どこか可愛らしい要素を持っている。もちろん、強盗や泥棒、悪魔や侵略者も現れるのだが、どいつもこいつも抜けていて、悪巧みのセンスも微妙で、いたずらもどこかお間抜け。かえってそんな彼らを見て、読者は愛情を抱かずにはいられない。

鳥山明の漫画が人を惹きつける最大の理由は、まさにここにあるのだろう。

私はむしろ… これを代表作と呼びたい。

二十世紀の少年漫画の代表作を挙げる際、鳥山明の『ドラゴンボール』はもはや欠かすことのできない作品だ。しかし、作者の創作活動における『Dr. スランプ』の位置を無視することはできない。まるで『キャッツアイ』が『シティーハンター』に先立つ存在であったように、前作の溢れんばかりのアイデアと熱意こそが、作者を本当の第一線に押し上げ、後の名作の多くの創作の原点となったのだ。そして何よりも、集英社の(あまりにも)編集方針の圧力をまだ受ける前に、余計な負担を背負わずに完結できたことが大きい。

『Dr. スランプ』は 80 年代にすでに連載を終えている。しかし幼い頃にこの作品を読んだ記憶は、今も鮮明に残っている。まるで観察者としての記録が、ある時期に一区切りついたかのように、私たちはもうペンギン村の連中の現在の姿を見ることはできないかもしれない。しかし、私はむしろ、彼らはあの村で元気に暮らしていると信じたい。十数年を経た今日、千兵衛博士の頭はすでに禿げているかもしれないし、アラレちゃんは白髪混じりの警察官を道路で追いかけているだろう。それでもペンギン村は変わらずそこにある。私たちは見ることはできないが、確かにそこにあるのだ。

Frontier 開拓動漫畫創意誌(2002 年)に掲載

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