有川浩は、自身の生み出したキャラクターにひときわ深い愛情を注ぐ作家だ。以前目にしたインタビューで、「作品を書き終える際、名残惜しくは感じませんか?」と問われた彼女は、こう答えていた。「それがあまりないんです。私のキャラクターたちはみんな自分の意思を持って動いているので、私はカメラを持って彼らを追いかけているだけという感覚が近くて。一つの物語が終わるのも、ただカメラをしまっただけに過ぎません。彼らは彼らの世界で今も暮らし続けていますし、ここで別れたとしても、将来また再会できないとは限りませんから」
この言葉を引き合いに出したのも、『阪急電車』こそがまさにそうした作品だからだ。片道わずか15分、駅と駅の間も平均2分に満たない短い路線。その一章一章の中で描かれる人生は、どれも非常に断片的なものだ。だが、それは決して投げやりな断片化ではない。有川浩は彼らに、とてもたくましい生命力を吹き込んでいる。喜びも悲しみも、すべての感情がどこまでも深くリアルだ。僕らが彼らの人生のほんの一部分にしか立ち会えないとしても、その断片は決してバラバラに分断されているわけではない。「今津線」という舞台の上で幾重にも交錯し、繋がっていく人生のドラマはどれも鮮やかだ。きっと本を閉じた読者の脳裏には、彼らの「今この瞬間」の姿が生き生きと浮かぶはずである。
ここで僕が「たくましい生命力」と言ったのは、「生命力」そのものというより「たくましさ」のほうを強調したかったからだ。有川作品の魅力の多くは、間違いなくキャラクター自身の魅力に支えられている。有川浩はどんな題材も恋愛要素で包み込むのが上手いと言われるし、なんなら著者本人も自分は恋愛小説(それもとびきりベタ甘で、最後は必ず結ばれるハッピーエンドもの)を書く作家だと認めている。これだけ聞くとベタに思えるかもしれないが、彼女の描く登場人物たちが幸せへと歩んでいく過程には、圧倒的な説得力があるのだ。
『阪急電車』を翻訳するにあたり、僕は作品を十数回も読み返した。最初に読み終えた時、こんなに素晴らしい作品を担当させてくれた感謝のメールを、すぐに編集者へ送ったほどだった。ただその時は、ストーリーやキャラクターが「とにかく可愛い」と感じた程度だった。だが何度も読み返すうちに、その「可愛い」彼らの背景にあるエネルギーがじわじわと伝わってきた。僕の言う「たくましさ」とは、決して高圧的だったり気が強かったりすることを意味しない(実際、いくつかの短編の主人公は極めて弱い立場にいる)。だが彼らには、共通する特質がある。正直さ、誠実さ、そして勇敢さだ。自分の感情に誠実に向き合い、正直に表現し、目の前の困難に勇敢に立ち向かう。彼らが幸せをつかみ取れるのは、作者がそうした結末を用意したからではない。有川浩が彼らに、自ら幸せをつかみ取るための力を与えたからなのだ。
だからといって、『阪急電車』が愛と夢と希望に満ちあふれた「お涙頂戴の感動ドラマ」だと誤解されては困る。そんな枠に収めてしまうのは、有川浩に対してあまりにも失礼というものだ。たしかに、作中を貫いているキーワードが「人々の善意」であることは間違いない。だが「善」や「愛」というものは、時に「憎しみ」や「悲しみ」があってこそ際立つものなのだ。
もちろん、どこまでも日常を題材にした小品だから、極悪非道な悪党が出てくるわけでもなければ、天地を揺るがすような悲劇が描かれるわけでもない。けれど作者は、誰もが通り過ぎてしまうような「なんてことのない出来事」を通して、僕ら市井の人間が直視せざるを得ない世の無情や悲哀を、実にあけすけに描き出してみせる。時には「無邪気な子どもたち」の姿を借りて、人間のズルさや計算高さといった陰の面の本質を突きつけてくるのだ。だからこそ僕らの日常にどこまでも寄り添っていて、読者は深い共感に包まれる。有川浩の筆力の高さは言わずもがなだが、それ以上に感服させられるのは、彼女の作家としての観察眼である。
翻訳者という立場を抜きにして、一人の読者の目線で見ても、僕はこの作品が大好きだ。ここ数ヶ月というもの、人に会うたびこの本を勧めまくっていた。「『阪急電車』を読んでみなよ、幸せにるよ!」というフレーズは、もはや僕の挨拶代わりになっていたほどだ。本当は一ファンとして、どのキャラクターが一番好きか、どの場面に痺れたか、どのセリフが心に残ったか……そんな話を心ゆくまで語り明かしたいところだが、その楽しみは読者自身が見つけるべきだろう。ここでは野暮なネタバレは控えておくことにする。
先月、日本で映画『阪急電車』が公開された。翻訳を担当した身として、この映画のチケット代ばかりは惜しむわけにいかない。年初に予告編を見て以来ずっと楽しみにしていたのだが、もともとファンだった中谷美紀の演技はもちろん、兵庫県出身である戸田恵梨香のネイティブな関西弁も期待通りで見応えがあった。全体として、実に原作に忠実な映画化だったと言える。尺や演出の都合上、泣く泣く削られたり変更されたりした細部を除けば、脚本やセリフの8割方は小説そのままだ。とはいえ、僕は小説の映画化に伴う脚本の変更に反対ではない。文字だからこそ伝わる情景もあれば、映像だからこそ表現できる世界もある。異なるメディアで最高の表現を追求する以上、適度なアレンジは絶対に不可欠だ。ここで「原作に忠実かどうか」で映画の良し悪しを評するつもりはないが(というか、ここで勝手に映画評を語るのもおこがましいのだが)、少なくとも有川浩の文章が持つ「視覚的な完成度」がいかに高いかという証明にはなったはずだ。
作者本人が「今津線」の沿線に暮らしていることもあり、地元住民だからこそ知るディープな風情が、作中にはそれこそ事細かに描かれている。自分の生活圏を物語の舞台にするだけでなく、有川浩は自身の「暮らし」そのものをこの作品に溶け込ませているのだ。電車内でふと耳にした面白い話、日常の買い物の動線、道端の野草を摘んで晩ご飯の一品にする日々のひとコマ(出版社の編集者が有川浩を人に紹介する際、「道端の草を摘んで食べる小説家です」と説明していたという話もあるくらいだ)……そうした生活の断片すべてが、彼女の創作の源泉になっている。また、作中に登場する土佐の銘酒「桂月」に至っては、本作の影響で入手困難なほどの売れ行きを見せた(2011年産の酒が出荷されたのは今年2月中旬だったが、一升瓶の純米吟醸「桂月」は4月を待たずに完売し、蔵元の土佐酒造ですら手に入らなくなったという。言っておくが、『阪急電車』が日本で発売されてから、すでに3年半も経っているのだ……)。文庫化されてからは、文庫本をガイドブック代わりに手に持ち、ストーリーをなぞりながら「阪急電車の聖地巡礼」を楽しむ人も増えた。台湾で繁体字版が発売されたら、台灣の読者も関西旅行へ繰り出し、震災で傷ついた日本に元気を届けるきっかけになればと願ってやまない。
時報出版《阪急電車》特設サイト推薦文より (2011/07)

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