「Tears of Time」シリーズは、20 世紀末から 21 世紀初頭にかけて、数多の歴史文献から掘り起こされた化石 のような作品たちだ。恥力の限界を突破したのち、「若さ故の過ち」との反省を込めつつ、自分で記録して世に出したものでもある。
今の学生にとって、先生とは一体どんな存在なのか。教科書に書かれたような、「道を伝え、業を授け、惑いを解く」の教師はまだいるのだろうか。特に高校以下の教師について言えば、台湾でも日本でも、多くの先生はすでに学校の進学率を上げるための「技師」と化しているのが現実だ。進学主義の前では、給与をもらいながら日々をやり過ごす先生たちにあまり厳しく言えないのも仕方ない。とはいえ、どんなに現実が厳しくても、学生である私たちは、友達のように何でも話せる先生に、少なからず憧れを抱いてしまうものだ……。
日本には二人の伝説的なマンガキャラクターが、この現状を打ち破った。一人は通称「イオナ」、どこから来てどこへ行くのか、身の上も一切謎に包まれたセクシーな小学校の女教師。もう一人は、かつて湘南で無敵を誇り、「鬼爆伝説」を作り上げた硬派な猛男で、日本一の高校教師を目指す麻辣教師「鬼塚英吉(21)」。この二人の架空の人物は、一般人が抱く「良い教師」というイメージを徹底的に覆し、教育者に新たな基準を打ち立てた。
澤井健の代表作『イオナ』では、目中無人で傲慢、まるで女王のように学校全体を手中に収める小学校教師・五十嵐一女。競馬好きで酒癖も悪く、毎日遅刻早退を繰り返し、習慣的に学級委員に宿題を出させ、期末休暇前になってようやく成績表をつけ忘れていたことに気づくこともある。教育者の目から見れば、決して模範的な教師ではない。しかし、彼女の存在は学校全体の羨望と嫉妬の的だった。ほかのクラスの子どもたちは、彼女のように身近に接して理解しようとする教師を望み、男性教師や保護者(父親)は、彼女のように成熟し、セクシーで、男性に無限の想像を抱かせる女性を求めていた。
藤沢とおるの超人気作『GTO』では、スーパー高校教師・鬼塚は、学校がいうところの「問題児」にぴったり当てはまる教師だ。女性の前では大言壮語を吐き、煙草を吸い、酒を飲み、喧嘩に車の暴走までこなす。金があるときは羽目を外し、金がないときは偽装事故で賠償金をせしめることもある。若いころに自身もやんちゃをしてきた彼にとって、当然、「至聖先師」級の道徳観など持ち合わせていない。何より、教師でありながら校方に従うだけの存在ではなく、実際には生徒と同じく権威に挑む側に属している。こうした関係が、鬼塚や生徒たちに「教師」と「生徒」の立場を改めて考えさせるのである。学校は生徒の敵である必要はないが、多くの生徒が校方に反発しているのは否定できない事実だ。
『イオナ』と『GTO』、この二つの作品は、意識していようといまいと、どちらも同じメッセージを放っている――「伝統的な教育のもとで育つ子どもは、みんな幸せじゃない!」ということだ。 では、その「伝統的な教育」とは何か。それは、子どもたちが「強制的に」「条件付きで」ある制度の中に押し込められ、「このルールに従わなければ、この世界(ゲーム)で成功できない」と刷り込まれる仕組みのことだ。
皆は学生時代に、なぜ教師を「恐れる」のか考えたことがあるだろうか?その理由は、教師という存在がゲームの中で果たす役割こそ、いわゆる監督者だからだ。ゲームをうまくプレイできなかったり、全力で取り組まなかったりすれば、すぐに監督者による「制裁」が下される。教育制度に大きな変化がない限り、このゲームは永遠に続くのだ。
しかし、イオナや鬼塚はこのやり方などまったく気にせず、自分たちの方法で自然に生徒たちと接し、自然に彼らの生活に入り込んでいった。生徒たちも、そんな教師から「人生に向き合う」ということを学び、周囲の人々に対してよりリアルな態度で向き合うようになる。比較すると、絶対的な優劣があるわけではないかもしれない。しかし、これは明らかに一つの可能性を示している。なぜなら、大きな環境は何も変わっていないからだ。そして現実的に考えれば、社会で生き抜くためのスキルを身につけることこそ、何よりも重要なのだ。
『GTO』はまだ連載中で、誰も「Great Teacher Onizuka」が日本の高校教育をどこまで変えるか確定できない。しかし、イオナの試みは明らかに終わっている。かつてイオナに教えられた「七年四組」の生徒たちは、今や中学に進学している。学級委員はあの長い髪をおかっぱに切り、洋一は生まれつき黄色がかった髪を黒く染めさせられる……。数年間イオナと共に過ごす学校生活は、今振り返るとまるで夢のようで、結局彼らは現実世界に戻り、制度の一部として存在している……。
しかし、イオナが残したものは、ただの夢だけだろうか?すべての生徒が結局はこの既定のゲームのルールから逃れられなくても、少なくとも「一度」はそのルールを離れることができた。一般の人々と違うのは、今日またその環境に戻ったとしても、少なくともこのゲームの本質を見抜く力を持っているということだ。現代の社会で、「社会に流されているんじゃなくて、自分自身が生活を経験している」と、この事実を見抜ける人がどれだけいるだろうか。
イオナと鬼塚という二人の型破りな教師が学生たちに教えていることは、人として生きる上で最も基本的な認識にすぎない。そして何より、彼らの指導を受けた学生たちは、自分自身を幸福にする力を身につけている。決して彼らの教育方法を全面的に肯定しているわけではないが、今の教育制度にそんな力があるだろうか?
『イオナ』と『GTO』は、道徳的な基準で考えれば決して学生の模範とは言えない。しかし、間違いなく、貴重な優れた教師であることは明らかだ。
全視界アニメ&コミック情報誌 image(1999 年7月創刊号)に掲載

コメントを残す