Asma NOTE

Years of rambling from a midlife otaku.

地元の味【その弐】

日本にとって、おにぎりはすでに台湾を代表するグルメのひとつになっている。ここ数年、テレビのタレントやYouTuberが気軽に台湾を訪れるようになり、小籠包や夜市に並んで、「朝ごはん」というキーワードがよく出てくる。彼らがカメラの前で湯気の立つおにぎりを割り、肉でんぶや味付け卵、切り干し大根、油条といった具材の豊かな味や食感に感嘆するたびに、こちらとしてはどこか強い疎外感を覚えてしまう。

友人と話していて初めて気づいたのだが、自分はこれまで塩味のおにぎりを食べた回数が、片手で数えられるほどしかないかもしれない。自分にとっては、甘いおにぎりこそが当たり前のものなのだ。

子どもの頃、焼餅(シャウ・ビン)と油条(ヨウ・ティアオ)の店でおにぎりをテイクアウトするときは、必ずはっきりと「砂糖入りのおにぎり」であることを強調しなければならなかった。でないと「甘い」が高い確率で「しょっぱい」と聞き間違えられてしまうのだ。嬉々として朝食を受け取って家に帰り、期待に胸を膨らませてひと口かじった瞬間――口いっぱいに広がるあの“裏切り”の味覚体験は、軽いトラウマと呼んでもいいのかもしれない。そうした経験から、当時の自分は、すでに自分は少数派なんだとわかっていた。

まあ、それでも別に構わない。味の好みなんて、もともと正しいも間違いもなく、ただ好き嫌いがあるだけの話だ。わざわざ甘いかしょっぱいかを対立させる必要もない。ちょうど南部ちまきと北部ちまきにそれぞれ好みがあるように、各自が好きなものを選べばいい。しかし、おにぎりの甘いかしょっぱいかという違いは、南北ちまきのように、それぞれに強い支持があって、互角なくらいのバランスになっているわけでもない。

絶対的に少数派である甘党の自分は、正統として扱われたいなんて最初から期待してなかった。ただ大人になってからわかったのは、そもそも多数派だ少数派だという話ですらなく、存在そのものに気づいていない人が少なくない、ということだった。たまに甘いおにぎりを知らない人に出会うと、「え!?おにぎりに甘いのあるの?」という反応に加えて、「それってアリなのか……」とでも言いたげな、どこか咎めるような視線まで向けられることがある。

日本に住むようになってからは、むしろ自分が甘党でよかったと思うようになった。地元の味を再現しようとすると、しょっぱいおにぎりは切り干し大根や肉でんぶ、高菜など材料がいろいろ必要になるが、甘いおにぎりなら基本的に砂糖だけでどうにかなる。ピーナッツ粉は少し厄介で、普通のスーパーではあまり見かけないが、ネットで探せばすぐに見つかるし、値段も数百円程度で済む。とはいえ、台湾おにぎりの魂とも言える――あのパリパリになるまで揚げた「老油条(ラウ・ヨウ・ティアオ)」だけは、やはり台湾でしか手に入らない。

「油条」という食べ物は、日本では「中華揚げパン」と呼ばれている。見た目こそ大きくは変わらないが、食感はかなりずっしりとしていて、こちらの感覚でいう油条とはまったく別物だ。できたての油条ですら個体差があるくらいなのに、ましてやちゃんとした“老油条”なんて、そう簡単に見つかるはずがない。

「じゃあ、台湾から調達するしかないか。」

当時の自分は甘く考えていて、台湾に戻ればそのへんの朝ごはん屋で老油条が手に入るものだと思っていた。ところが実際に帰国して何軒も尋ねてみると、そもそも扱っていなかったり、あっても売ってくれなかったりする。ようやく話を聞かせてくれた一軒は、自分たちでは作っていないものの、仕入れ先くらいは教えてくれた。

住所も店名もない。唯一の手がかりは、「華江市場の中に、それを専門に作ってる店があるよ!」という一言だけだった。

とにかく翌日、妻と一緒に台北の和平西路へ向かい、午前のうちに華江市場の路地へと潜り込んだ。あちこちで聞き込みをしつつ、二、三度ほど軽く道に迷いながら、ようやく店じまいでシャッターを下ろそうとしている油条専門店を見つけることができた。なんとかその日売れ残っていた三、四本を買うことができた。あの時は、たしかまだ九時半にもなっていなかったと思う。

あのときの帰省ではかなり周到に準備していて、事前に小型の真空パック機とジッパー付きの保存袋を用意しておいたのだ。手に入れたその足でホテルに戻り、さっそく念願の老油条を細かく分けて個別にパックしていった。あのとき持ち帰った老油条も、もう二年は経っているだろうか。真空パックして冷凍している以上、風味が落ちるのは避けられないが、自分で米を蒸して砂糖やピーナッツ粉をまぶし、老油条に包めば、よほど油の酸化臭が強くなければ、基本的にはそれなりにいける。

国内であれ海外であれ、自宅でおにぎりを作るもうひとつの利点は、自分のこだわりを徹底できることにある。甘いかしょっぱいかとは別に、どうしても譲れないポイントがいくつかあるのだ。

十数年前から二十年ほど前にかけて、「棒状」のおにぎりが徐々に主流になっていった。しかし自分にとっては、食べかけのおにぎりをもう一度小さく握り直すあのちょっとした“儀式感”と、そこで改めて「最初のひと口の食感」をもう一度味わえるという実質的な意味があってこそで、そう考えると、棒状のおにぎりが主流になるべきではないと思っている。

百歩譲って、そういう儀式感を求めない人や、あの最初のひと口に特別な価値を感じない人にとっては、おにぎりの形が四角だろうと丸だろうと、たしかにどうでもいいのかもしれない。けれど、揚げたての油条で老油条をそのまま置き換えてしまうなんて……あの中に包まれているサクサクした食感が失われるということは、つまりおにぎりの“魂”を奪うのと同じことだ。自分にとっては、それはもう乱暴で、おにぎりの本質を裏切った罪ともいえる。

2026年の今になって、ちゃんとした老油条を包んだ丸い甘いおにぎりを一つ食べるだけで、こんなにもハードルが高くなるなんて、誰が想像できただろう。台北の街で自分の理想を追い求めるよりも、家で自分の信念やこだわりを貫いて包み上げたあの一つのほうが、自分にとっては、もしかすると地元よりもずっと“地元の味”なのかもしれない。

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