Asma NOTE

Years of rambling from a midlife otaku.

コーヒータイム

子どもの頃の自分は、コーヒー牛乳ですら口にしなかった。たいていの子どもと同じで、どうして大人があんな黒くて苦い液体をわざわざ飲むのか、まったく理解できなかった。ただ、少し年齢が上がるにつれて、コーヒーというものに対して好奇心のようなものが芽生え、どこかで「コーヒーを飲む」という行為そのものが、大人になった証のようにも感じていた。

大人になってからもしばらくのあいだ、コーヒーは自分にとってあってもなくてもいい存在だった。あるとき、コーヒーに無関心だという話を聞いた友人が、わざわざ自宅のサイフォン一式を持ち込んで淹れてくれたことがある。ただ、その頃はまだ舌が追いついていなかったのだろう。いかにも手間をかけて淹れられたその一杯を受け取っても、こちらはその仰々しさに乗っかって褒めることしかできず、味そのものについてはほとんど記憶に残っていない。

どれだけ認めたくなくても、「カフェモカが自分にとってのコーヒーのきっかけだった」という事実は変わらない。スターバックスも今では何かと軽く見られがちだが、少なくとも自分にとってはあれが出発点で、濃いミルクやチョコレートの甘さの奥にあるエスプレッソの味を、あとから辿るようにして理解できるようになった。

家でエスプレッソに手を出そうと思ったことがないわけでもない。ただ、その意気込みはせいぜい二週間ももたなかった。当時は気合を入れて入門書をあれこれ漁っていたのだが、その中の一冊がやたらと説いていたのが、「いいコーヒーを淹れるには自家焙煎が必要だ」という話だった。料理を覚えようとレシピを調べたら、「うまく作るにはジビエが必要です」と言われて、罠の仕掛け方から教えられるようなものだ。「いいコーヒーを淹れたければまず豆を焙るところから」――そんな(自分なりに受け取った)乱暴な理屈に、最初の一歩を踏み出す気力はすっかり削がれてしまった。

自宅で淹れることはなかったが、長年いろいろな店で飲み歩くうちに、それなりに経験だけは積み重なってきた。細かい違いまでは分からなくても、自分の好みくらいははっきりしてきたし、市販の粉とその場で挽いた豆の違いくらいなら、さすがに飲めば分かるようになっている。

結婚してから、豆を自動で挽いてくれる全自動のドリップ式コーヒーメーカーを買った。豆を入れてボタンを押すだけで終わりで、技術的なことは何もいらない。「豆を挽いてコーヒーを淹れる」ハードルをここまで下げてくれるのは、少し気が引けるくらいだが、豆を買いに行って店員に「挽きますか?」と聞かれるたびに、「豆で大丈夫です」と答えるあの一言には、どこか安っぽい優越感がついてくる。

二年前、妻が家から四、五駅離れたところで、生豆をその場で選んで焙煎してくれる専門店を見つけた。数坪ほどの小さな店内には、世界各地のコーヒー豆が何十種類も並んでいる。客が好みの豆を選ぶと、店主がすぐに白い生豆を店にある数百万円の焙煎機に入れ、十分もかからず、香りがガツンと頭にくる一袋に仕上げてくれる。この店のおかげで、あの入門書で言っていた「焙煎したて」という感覚が、ようやく分かった。

何ヶ月か試行錯誤を重ねるうちに、二人にとってしっくりくる豆の種類と焙煎具合もだんだん見えてきた。今ではだいたい一、二ヶ月に一度はあの店に足を運んでいて、行くたびに店主がその月のおすすめの新豆を試飲させてくれる。いろいろ飲み比べてみても、結局いちばん口に合うのは最初に選んだ豆のままだ。

コーヒーも自分にとっては、ほかのグルメと同じで、どんなに評価が高くておいしくても、結局は「毎日でも飲みたい」と思わせてくれるかどうか、それだけだ。

だが、自分がコーヒーを分かっているとは、今でも言えない。

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