台湾大学の辛亥路正門前にある言語訓練測定センター(LTTC)が、私が本格的に日本語を学び始めた原点だ。当時、上級クラスに(記憶が確かなら……)杉山という先生がいた。このおじさんは実にマイペースで、教科書通りにきっちり授業を進めることなど滅多になかった。私の記憶では、授業の7、8割は(日本語での)生徒との雑談に費やされていた気がする。同じように彼の授業を受けた先輩は「あの人は手抜きがひどい」と呆れていたが、私はこのスタイルが結構気に入っていた。何しろ台湾にいながら、日本語で「たわいのない雑談」をする機会などそうそうないからだ。
ある日の授業中、みんなで「臭豆腐」の話題になった。大抵の日本人が敬遠するこの台湾のソウルフードを、彼は心から愛しているのだと、どこか誇らしげに語った。そして、自分が台湾で食べた中で「最高にイカした臭豆腐」は、自宅の近所、地下鉄の景美駅のすぐ脇の路地にある屋台のものだ、と続けた。あの日、教室の中で一番耳をそば立てて、誰よりも真剣にその話を聞いていた生徒は、間違いなく私だったと思う。
私のローカルフード・ランキングにおいて、臭豆腐は永遠のトップだ。
確か中学生の頃だ。家の近くの小さな公園の脇に、いつも屋台を出して臭豆腐を売るおばさんがいた。当時の(私の知る限りの)臭豆腐といえば、揚げたてを切ってそのまま出すのが主流だったが、そこは、私が初めて目にする「二度揚げ」のスタイルだった。包丁もまな板もなく、七、八分ほど揚げてある豆腐をトングで掴み、ハサミで不規則に切りながら油鍋へと直接落としていく。揚げられた豆腐も、カリカリの食感ではなく、どちらかといえば厚揚げに近く、柔らかさの中に少し噛みごたえのある質感だった。
今の私に言わせれば、おばさんの流派は実はそこまで好みの揚げ方ではない。ただ、当時は放課後にわりと頻繁に買って食べていたため、何年も続けるうちに、自然と「臭豆腐好き」の遺伝子が養われていったのだろう。
年齢を重ね、行動範囲が広がるにつれ、出先で見知らぬ屋台を見かけると大抵は試しに食べてみた。味の品定めというより、視野を広げる感覚だ。大人になる頃には、どのような種類の豆腐があり、油温や揚げ方でどう変わるのか、泡菜(台湾風キムチ)の甘酸っぱさと豆腐の相性……といった細部について、論文を書くほどではないにせよ、自分なりの評価軸がしっかりと胸の中に構築されていた。
話を杉山先生のことに戻そう。「臭豆腐をこよなく愛する日本人」が認めたナンバーワン? そんなもの、鑑定しに行かないわけにはいかない。授業が終わるやいなや、私は教壇へと駆け寄り、その「台湾最高峰」の屋台の詳しい場所を先生に詳しく尋ねた。
当時、新店に住んでいた私は、毎日の帰路でバイクを走らせて景美橋を渡っていた。先生に教えてもらった情報の通り、その日の夜、私はさっそくその臭豆腐の屋台へと突撃した。路地裏に入ってからも、それほど迷うことはなかった。ある程度の距離まで近づけば、唾液の分泌を激しく促すあの独特な香りに、おのずと引き寄せられるからだ。
おじさんとおばさんが営むその屋台は、小さな駐車場の脇に佇んでおり、臭豆腐の他にも麺線(ミエンシエン)を並行して売っていた。麺線はおじさんが担当し、おばさんは豆腐を揚げることに専念している。あの香りを嗅いだ瞬間、この屋台が間違いなく本物だと分かった。そうなれば、ここが台湾一かどうかなんて、私にはどうでもいいことだった。運ばれてきた一皿は、視覚的にはこれといって記憶に残るような派手さはない。だが、一口齧りついた瞬間……大げさではなく、目に見えぬ七色の虹が口から噴き出し、三匹の金龍が天へと舞い上がる――そんな幻覚すら覚えるほどだった。

私の中に、「いい塩梅」という言葉こそが、あらゆる美食に対する至高の賛辞であるという持論がある。この店の臭豆腐は、香り(発酵度)、調味(タレやニンニクなどとのバランス)、食感(油温と火加減)のどれをとっても、完璧な「いい塩梅」だった。主役を引き立てる泡菜も清香が立ち、酸味も適度で、本体と見事な調和を保っている。独自の調合による、コクのある甘みを帯びたトウバンジャンも傑作だった。塊ごと真っ赤に染めて食べるのが好きな私にとって、この香り高くも辛すぎないタレは、全体の味を調える最高の立役者だった。
味の好みは人それぞれだ。大げさだと思う人もいるかもしれないが、私にとっては一文字たりとも偽りのない本音だ。何より、皮を「酥にして脆からず」の絶妙な火加減で揚げ、噛んだ瞬間「パリッ」ではなく「サクッ」と響かせる。これだけで国宝級の価値がある。
あの夜以来、私は常連になり、おじさん夫婦とも親しくなった。言語センターの課程を終えた頃、杉山先生が退職して台北を離れたとおじさんから聞いた。私もこの店に通う数年の間に二度転職し、やがて東京留学の準備を始めた。台湾を発つ前、最後に足を運んだとき。おやじさんが、景気づけにと麺線を一杯ごちそうしてくれた。

日本に留学してからは、おおむね年一回のペースで台湾に帰省し、ほぼ毎回、飛行機を降りたその日の夜に店へ駆け込んで、その味で欲求を満たしていた。実のところ、こだわりさえしなければ大抵の郷愁の味は東京でも手に入る。しかし臭豆腐だけはハードルが高すぎた。本物が手に入らない以上、妥協するほかなかった。ある帰省時、私の必死の懇願におばさんが折れ、秘伝のトウバンジャンを3瓶分けてくれた。それを何年も大切に使い、自分用だけでなく、当時通っていた視覚伝達デザイン学科の進級制作(テーマは「麻婆豆腐の歴史的文脈」)の作品にも使ったほどだ。
生活の拠点は台湾になかったものの、広い意味では私は十数年通い詰めた常連客だ。おじさん夫婦だけでなく、当時は学校の休みに時折手伝いに来ていた息子さんとも、通い詰めるうちに「東京の馬(マー)おじさん」と呼ばれるほどの間柄になっていた。

確か2012年頃のことだ。小さな駐車場の脇にあった屋台が、元の場所から徒歩3、4分のところに、ついに店を構えた。その年、帰省した私はお祝いの言葉を述べたのだが、おじさんの表情はどこか複雑で、「この店も長くは続けられない。今月には景美夜市のすぐ側にまた移転するんだが、今度もいつまでいられるか分からないよ」と淡々と語った。まさか、次に私が帰省したときには、まだ足を運べてさえいなかったその新店舗が、すでに閉店していようとは。2012年5月の初めのあの夜こそが、私が彼らの臭豆腐を口にした最後の日となってしまった。

今でも、臭豆腐は私にとって何よりの故郷の味だ。台湾に帰省するたび、臭豆腐の店を通りかかり、時間さえ許せば、妻を無理やり付き合わせては店へと入った。台北の市街地から台南の古都にいたるまで、夜市でその名を轟かせる専門店もあれば、住宅街の小さな麺類の屋台もあった。整理券を受け取って二時間も待つという花蓮・玉里の名店にさえ、わざわざ車を走らせて食べに行ったこともある。ここ数年で新たに開拓した臭豆腐の店は、三十軒とまではいかなくとも、二十数軒には上るはずだ。
おじさんたちの臭豆腐を失ってからというもの、自分が帰省のたびに探しているのは、ただの代わりに過ぎないのだとよく分かっている。私の中で、あの味こそが臭豆腐の理想型だった。ある店で似たような形を見つけ、別の店で似たような調味に出会うことはあっても、あの「すべてがいい塩梅に調和した世界」には、どうしても辿り着けない。「酥にして脆からず」のあの皮にいたっては、本当におばさん以外、あの完璧な食感に揚げられる人には出会えずにいる。
それなりの年齢になれば、どれほど嫌だろうと、有形無形のあらゆる喪失を受け入れざるを得なくなる。人生における無数の挫折や失敗に比べれば、「お気に入りの臭豆腐の屋台がなくなった」という程度の遺憾など、本当に微々たるものだ。
この文章も、ことさらに感傷に浸ったり懐かしんだりするつもりはない。ただ、これらの話をすっかり忘れてしまう前に、自分の味覚の確かな軌跡を残しておきたかった。
PS:
おじさんがもしこれを見ていたら、麺線のことに触れなかったからって怒らないでね。あそこの麺線も、私の中では唯一無二なんだから。つみれもホルモンも、あんなに惜しみなく入れる店は見たことがない。麺線より具の方が多いんじゃないかってくらいで……。ただ、今回の主役はあくまで臭豆腐。これ以上脱線するわけにはいかなかったんだ。


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